横浜観光 消えた観光地の記憶をたどる かつて存在した幻の名所たち
かつて確かに存在した、横浜の“もう行けない観光地”とは?
現在の横浜は、近未来的なビル群が空を彩るみなとみらい21地区、異国情緒あふれる山手・元町、活気ある横浜中華街、そしてロマンチックな港を望む山下公園など、洗練された都市景観が美しい、国内有数の観光地として輝きを放っています。多くの人々が「今」の横浜の姿に魅了され、訪れています。
しかし、その華やかな景色の下には、幾重にも重なった「記憶の層」が存在します。少し時代をさかのぼれば、今ではもう訪れることができなくなってしまったテーマパーク、地域住民の憩いの場であった娯楽施設、そして街の象徴であったランドマークが、そこには数多く存在していました。これらはかつて多くの人々に愛され、週末ごとに行列ができるほどのにぎわいを見せていたものの、時代の流れ、都市開発の荒波、そして人々のライフスタイルの変化にともない、静かにその役目を終え、消えていったのです。
本稿では、「横浜観光 消えた観光地」というノスタルジックなキーワードを胸に、今はもう地図上には存在しない場所、Googleストリートビューでも見ることができない風景、そして記憶の中にしか存在しない“幻の”施設たちをピックアップします。都市の急速な変遷とともに、記録の中でしか見ることができなくなった、もうひとつの横浜の姿をご紹介します。
● 記事のポイント4つ
この記事では、横浜のかつての姿を多角的に掘り下げます。
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横浜の「消えた観光地」を時系列やエリアごとに整理して紹介
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閉鎖、廃止、そして大規模再開発によって失われた場所の「当時」と「今」を具体的に解説
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現在の姿との比較や、図書館の資料、デジタルアーカイブなどで思い出をたどる方法も紹介
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観光客だけでなく、地元民にとっても懐かしい“幻の観光地”やスポットを多角的に取り上げます
横浜観光 消えた観光地を巡る追憶の旅
【横浜ドリームランド】幻の遊園地リゾート(1964年〜2002年)
横浜市戸塚区(現在は俣野町に位置)にかつて存在した「横浜ドリームランド」は、多くの横浜市民・神奈川県民にとって“夢の国”そのものでした。1964年(昭和39年)、東京オリンピックの年に華々しく開園したこの場所は、奈良ドリームランドの姉妹パークであり、開園当時は「東洋一の遊園地」とも称された国内初の本格的な大規模テーマパークでした。
東京ディズニーランドが開園するよりもずっと前に登場し、シンボルであった巨大な観覧車、スリル満点のジェットコースター、夏場に賑わう大プール、さらには「ホテルエンパイア」という特徴的な高層ホテルまで完備した“総合リゾート型遊園地”として、関東圏の家族連れやカップルを中心に絶大な人気を誇りました。
しかし、開園当初からの大きな課題であった交通アクセスの不便さ(特にモノレール計画の失敗が響きました)、その後のレジャー多様化による経営不振、そして施設の老朽化などが重なり、多くのファンに惜しまれつつ2002年(平成14年)に38年間の歴史に幕を下ろしました。閉園後の広大な敷地の大半は、現在「横浜薬科大学」のキャンパスとして利用されており、当時の面影はほとんど残っていませんが、大学の図書館(旧ホテルエンパイアの建物を改装)には当時の資料が一部保管されています。
【YES’89 横浜博覧会】わずか半年で消えた未来都市(1989年)
1989年(平成元年)、横浜は市制100周年・横浜港開港130周年という記念すべき年を迎えました。これを祝して開催されたのが、正式名称「横浜博覧会」(愛称:YES’89=YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE ’89)です。これは、まだ広大な埋立地と空き地が広がっていた「みなとみらい21地区」を舞台に、わずか191日間だけ開催された大規模なイベントでした。
当時の最新技術を駆使した企業パビリオン(動く実物大の恐竜が人気を博したものや、リニアモーターカーの展示もありました)が立ち並び、会場内には世界最大(当時)の観覧車「コスモクロック21」やジェットコースターも設置され、まさに“未来都市”が出現したかのようでした。横浜市の公式な記録によれば、この博覧会はみなとみらい21地区開発の大きな起爆剤となりました。(出典:横浜市「みなとみらい21の歩みと市の動向・首長の変遷年表」)
しかし、パビリオンのほとんどは博覧会のために建てられた仮設建築物であり、会期終了後にはその多くが撤去されました。現在のランドマークタワーやクイーンズスクエア、パシフィコ横浜が建つあの場所こそが、博覧会のメイン会場だったのです。今やその痕跡を見つけることは困難ですが、この博覧会の成功が、現在の美しいみなとみらい地区の礎となりました。
【本牧ピア・本牧フェリー埠頭】かつての海上玄関口
1980年代から90年代にかけて、横浜の「本牧」は独自の文化を発信する流行の最先端エリアでした。その中心にあったのが、巨大商業施設「マイカル本牧」であり、それと並んで海の玄関口として機能していたのが「本牧フェリー埠頭」と商業施設「本牧ピア」です。
かつて本牧ふ頭からは、東京(有明)や千葉方面とを結ぶフェリーが運航されており、海上交通の要所でした。「本牧ピア」にはレストランやショップが入り、ドライブデートの定番スポットとしても人気を集めました。しかし、横浜ベイブリッジの開通(1989年)による陸上交通網の劇的な変化や、観光・商業の中心地がみなとみらい地区へと移行したことなどから、1990年代にその役割を終え閉鎖されました。現在はふ頭機能、コンテナヤード、そして「本牧海づり施設」を含む公園として再利用されています。
📍施設跡地は神奈川県横浜市中区本牧ふ頭周辺
【野毛山ローラー滑り台】
現在も多くの市民や観光客に愛されている、入園無料の「横浜市立野毛山動物園」。その動物園の近く、野毛山公園の敷地内には、かつて子どもたちの歓声が響き渡る長いローラー滑り台が設置されていました。
動物園とセットでこの滑り台を楽しむのが、横浜の子どもたちの定番コースでした。しかし、遊具の安全基準の厳格化と、長年の使用による老朽化が進んだことにより、安全性を確保できないとして撤去されました。今ではその痕跡はなく、きれいに整備された芝生広場(展望台近く)となっており、かつての賑わいを知る人は少なくなっています。
【海の公園南側のレトロ遊具群】
横浜市金沢区、金沢八景や八景島シーパラダイスにも近い「横浜市|海の公園」は、横浜で唯一、海水浴と潮干狩りが楽しめる貴重な海辺の公園です。この公園の南側(柴口駐車場寄り)には、かつて昭和の雰囲気を色濃く残すレトロな遊具群が設置された遊び場がありました。
バネで揺れる動物型の遊具、独特な形状の回転遊具、アスレチック風の木製遊具などが点在し、潮干狩りやバーベキューに来た家族連れの子供たちに人気でした。しかし、これらの遊具も野毛山と同様、老朽化と新しい安全基準への対応のため、2020年(令和2年)以降に順次撤去・解体されました。現在は開放的なピクニック広場として再整備されています。
【横浜美術館の前身展示エリア】
みなとみらいのシンボルの一つである「横浜美術館 公式サイト」。この美術館は、前述の「YES’89 横浜博覧会」の開催に合わせて1989年に開館しました。
ここで言う「消えた観光地」とは、美術館そのものではなく、その「周辺」の姿です。美術館が開館した当時、周辺はまだ開発途上の広大な空き地でした。博覧会終了後、ランドマークタワーなどが完成するまでの間、このエリアは仮設の展示場やイベントスペース、時にはサーカスのテントが張られる場所として利用されていました。現在の整備されたグランモール公園や高層ビル群の姿からは想像もつかない、過渡期の風景がそこにはありました。みなとみらい地区の整備が急速に進むとともに、これらの一時的な施設はすべて姿を消しました。
横浜観光 消えた観光地を知ることで広がる“もうひとつの旅”
なぜ観光地は消えてしまうのか?
あれほど賑わった場所が、なぜ姿を消してしまうのでしょうか。それには、都市が生きている証ともいえる、いくつかの明確な理由があります。
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都市開発・再開発: 最も大きな理由です。街の機能を更新し、より魅力を高めるため、古い施設は新しいものに取って代わられます(例:YES’89跡地 → 現在のみなとみらいビル群)。
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時代のニーズの変化: 人々の娯楽や価値観が変わることで、古いタイプのレジャー施設は人気を失うことがあります(例:横浜ドリームランド)。
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インフラ整備による影響: 新しい道路や橋、鉄道が開通することで、それまでの主要な交通手段や拠点がその役割を終えることがあります(例:本牧フェリー埠頭と横浜ベイブリッジ)。
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運営側の経営課題や安全基準変更: 経営難による閉鎖や、安全基準の厳格化に対応できずに撤去されるケースもあります(例:野毛山・海の公園の遊具)。
都市の進化と成長の過程で、観光地もまた“生き物”のように生まれ、育ち、そして消えていく運命にあるのです。
消えた観光地が与えてくれる学び
「もう行けない場所」を知ることは、決して単なる懐古趣味(ノスタルジー)にとどまりません。それには、現代の私たちにとっても重要な学びが含まれています。
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地元民の思い出とともに観光地が記憶に残る: 施設がなくなっても、そこで過ごした「時間」や「体験」は、地元の人々の心に強く刻まれています。観光とは、建造物だけでなく「記憶」でもあるのです。
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観光は「今ここにある場所」だけではない: 現在の風景に、かつての風景を重ね合わせることで、その土地の歴史的な厚みを感じることができます。横浜市中央図書館などで当時の地図や写真を探す「アーカイブ(記録)の旅」も、立派な観光の一形態です。
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歴史をたどる旅は、未来の観光のヒントにもなる: なぜその場所が愛され、なぜ消えたのかを知ることは、これから先の未来、どのような街や観光地が求められるのかを考えるヒントを与えてくれます。
横浜観光 消えた観光地:まとめ
「横浜観光 消えた観光地」をテーマに巡る旅のポイントをまとめます。
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消えた観光地は、横浜という都市がダイナミックに変化してきた証であり、“都市の記憶”を伝える貴重な存在です。
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ドリームランドやYES’89の記憶は、今の横浜がどのように形づくられたかを知るための重要な手がかりとなります。
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物理的には失われても、記憶と記録(資料)をもとに、自分だけの「もう一つの横浜観光」を心の中で楽しむことができます。
次にあなたが横浜の街を歩くとき、例えばみなとみらいのビル風を感じながら、かつてここが博覧会の会場だったことに思いを馳せてみてください。あなたの心の中の地図には、“もう消えた観光地”も確かに描かれているかもしれません。
「今」の景色と「過去」の記憶を重ね合わせながら歩くことで、きっと、より深く横浜という街を味わえる、豊かな旅がはじまるはずです。
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