横浜 江戸時代は何藩?六浦藩と横浜の歴史を徹底解説
「六浦藩」って知ってる?江戸時代の横浜はどこの藩だったのか
「横浜は江戸時代、いったい何藩だったの?」――この問いは、歴史好きならずとも、横浜という街のルーツに興味を持つ多くの人が一度は抱く疑問かもしれません。国際港湾都市として世界にその名を知られる現代の横浜。そのきらびやかなイメージとは裏腹に、江戸時代の姿は非常に複雑でした。実は、現在の横浜市域の大部分は特定の大名が治める「藩」ではなく、幕府が直接支配する「天領」や、将軍直属の家臣である「旗本」の領地がモザイク状に入り組む土地だったのです。そして、その複雑なパズルの中に、横浜の歴史を語る上で欠かせないピースとして、**「六浦藩(むつうらはん)」**という藩が確かに存在しました。本記事では、このあまり知られていない「六浦藩」の存在を軸に、江戸時代の横浜がどのような支配構造にあったのか、そして当時の人々の暮らしや社会がどのようなものであったのかを、分かりやすく丁寧に解き明かしていきます。
記事のポイント4つ
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江戸時代の横浜に「六浦藩」が存在した事実を掘り下げ、幕府直轄地である「天領」や「旗本領」との違いを、初心者にも分かりやすく図解のように解説します。
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六浦藩がどこにあり、どのような歴史を辿ったのか、そして現在の横浜市域とどう関わっていたのかを、具体的な地名や史跡を交えて徹底的に解説します。
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天領や旗本領が複雑に入り組んでいた江戸時代の土地支配の仕組みを解き明かし、その名残が現代の横浜にどう繋がっているのかを探ります。
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幕末の横浜開港がなぜ幕府直轄地で行われたのか、その歴史的意義や、知っていると街歩きがもっと楽しくなる豆知識も詳しく紹介します。
横浜 江戸時代は何藩?六浦藩の歴史と横浜の支配構造
江戸時代の横浜エリアと「藩」の関係
江戸時代の土地支配を理解するためには、まずいくつかの基本的な用語を知る必要があります。「藩」とは、1万石以上の石高を持つ大名が将軍から統治を認められた領地とその支配機構のことです。しかし、江戸時代の日本の全ての土地が「藩」だったわけではありません。特に江戸の近郊であり、軍事的・経済的に重要だった横浜周辺は、幕府の支配が強く及んでおり、以下のような多様な支配地が複雑に入り組んでいました。
- 藩領:大名が支配する土地。藩主が自身の家臣団を率いて統治する。
- 天領(幕府直轄地):江戸幕府が直接支配する土地。代官などが派遣され、年貢は幕府の財源となった。
- 旗本領:将軍に直接仕える1万石未満の家臣「旗本」に与えられた土地。小規模な領地が各地に分散していることが多い。
- 寺社領:幕府から特別な庇護を受けた有力な寺社が支配する土地。
現在の横浜市域は、これらの支配形態がパッチワークのように混在していたのが大きな特徴です。
六浦藩とは?場所と歴史
その複雑な支配構造の中で、横浜の南部に確かに存在したのが六浦藩(むつうらはん)です。小規模ながら、江戸時代の横浜の歴史において重要な役割を担いました。
【六浦藩の概要】
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藩庁(陣屋):武蔵国久良岐郡六浦(現在の神奈川県横浜市金沢区六浦)。陣屋跡が市の登録地域文化財として紹介されています。
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主な藩主:米倉氏
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石高:約1万2千石
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歴史:江戸時代中期の1722年(享保7年)に、下野国皆川藩主であった米倉昌尹が領地替えによって六浦に陣屋を移したことで成立。以降、廃藩置県まで約150年間にわたり米倉氏が統治しました。
六浦藩と横浜市域
六浦藩の中心地は、鎌倉時代から「金沢(かねさわ)」と呼ばれ、塩の産地や海上交通の要衝として栄えた歴史ある土地でした。藩の領地は、現在の横浜市金沢区のほぼ全域と磯子区・港南区の一部、さらに逗子市、葉山町、横須賀市の一部にまで及んでいました。つまり、横浜市南部は江戸時代を通じて「六浦藩」という大名によって治められていたのです。小規模な譜代藩として、江戸湾の警備など幕府の重要な役目も担っていました。
天領・旗本領・他の藩領も存在した江戸時代の横浜
一方で、六浦藩領以外の横浜市域は、どのような支配下にあったのでしょうか。下の表のように、非常に細分化されていました。
| 支配形態 | 主なエリア(現在の横浜市) | 特徴 |
|---|---|---|
| 天領(幕府直轄地) | 中区、西区、神奈川区、鶴見区、港北区など | 東海道の宿場町(神奈川宿、保土ヶ谷宿、戸塚宿)や、後の横浜開港地となる横浜村を含む、交通・経済の最重要拠点を幕府が直接管理。 |
| 旗本領 | 港北区、緑区、青葉区、都筑区、泉区、戸塚区など | 市域の北西部や西部に広範囲に分布。数村単位の小さな領地がモザイク状に入り組んでいた。一つの村が複数の旗本によって分割支配されることも。 |
| 他藩の領地 | 市域の境界周辺 | 小田原藩(大久保家)や烏山藩(稲垣家)などの飛び地が点在。六浦藩のように市域内に本拠地を置く藩は稀だった。 |
| 寺社領 | 市内各所 | 鶴見の總持寺や金沢の称名寺など、歴史ある有力寺社が持つ領地。 |
このように、江戸時代の横浜は「〇〇藩の城下町」というような単純な構造ではなく、幕府の厳格な管理の下、多様な支配者が土地を治める「複合支配地域」だったのです。
横浜 江戸時代は何藩?六浦藩と開港・近代都市への歩み
横浜開港前夜:六浦藩・天領・旗本領の時代
幕末の開港を迎えるまで、横浜の各地はそれぞれ異なる歩みを見せていました。六浦藩では、藩主米倉氏のもとで安定した藩政が行われ、金沢は景勝地としても知られていました。一方、後の横浜の中心部となる横浜村は、戸数わずか100戸ほどの半農半漁の静かな村でした。しかし、東海道の宿場町である神奈川宿や保土ヶ谷宿は多くの旅人で賑わい、幕府の天領として厳しく管理されていました。江戸時代後期には、吉田勘兵衛による「吉田新田」の開発など、後の横浜発展の礎となる動きも見られましたが、全体としてはまだ穏やかな農村・漁村地帯でした。
横浜港の開港と幕府直轄地
この静かな村の運命を劇的に変えたのが、1853年のペリー来航とそれに続く開国要求です。1858年の日米修好通商条約に基づき、当初は宿場町として栄えていた神奈川を開港する予定でしたが、幕府は東海道の治安維持などを理由に、対岸の静かな横浜村を代替地として指定。1859年7月1日(旧暦の安政6年6月2日)、横浜港は国際貿易港としてその歴史的な第一歩を踏み出しました。横浜開港資料館のウェブサイトには、当時の様子が詳しく記録されています。開港地に選ばれた横浜村は幕府の天領であったため、外国人居留地の造成や貿易の管理、治安維持など、国家的なプロジェクトを幕府が主導権を握って迅速に進めることができたのです。
廃藩置県と六浦藩のその後
開港によって急速に近代都市へと変貌を遂げる横浜の中心部を横目に、六浦藩もまた時代の大きなうねりに飲み込まれていきます。
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幕末の動乱期、六浦藩は江戸湾岸の警備などを担い、幕府方として行動しました。
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1871年(明治4年)の「廃藩置県」により、日本全国の藩は廃止され、近代的な「県」に再編されます。これにより六浦藩も消滅し、「六浦県」となりますが、すぐに神奈川県に編入。こうして、かつての藩領、天領、旗本領といった複雑な支配地はすべて神奈川県のもとに統一され、現代の横浜市の行政区画の基礎が築かれました。
横浜 江戸時代は何藩?六浦藩ゆかりの地と今に残る歴史
六浦藩陣屋跡と金沢区の史跡
六浦藩の記憶は、現代の横浜にも確かに息づいています。
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藩の中心であった陣屋跡は、現在の横浜市金沢区六浦4丁目の住宅街の中にあり、その歴史を伝える説明板が設置されています。当時の面影を直接見ることは難しいですが、この地が江戸時代の一つの「藩」の中心であったことを知ると、感慨もひとしおです。
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また、金沢八景や称名寺、瀬戸神社など、藩政時代から続く名所旧跡が金沢区には数多く残っており、歴史散策には最適なエリアです。
横浜の他の歴史的エリア
六浦藩以外のエリアにも、江戸時代の名残は点在しています。
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横浜市中心部(中区・西区)は、幕府直轄地として開港し、近代化の舞台となった歴史そのものが最大の史跡と言えます。馬車道や山手地区の洋館群は、その激動の時代を物語っています。
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港北区や緑区、青葉区などの丘陵地帯には、かつて旗本が治めた村々の面影が、古い神社や旧家の屋敷林、そして地名などに今も見て取ることができます。
六浦藩と現代横浜のつながり
最も直接的なつながりは、やはり「地名」です。
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京急線の駅名として「金沢八景」や「六浦」があり、金沢区の地名として「六浦」「六浦町」「六浦東」などが現在も公式に使われています。
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江戸時代から続く道筋や、地域の祭り、旧家の家々など、目に見えるものから見えないものまで、六浦藩の歴史は現代の横浜の文化や景観に深く溶け込んでいるのです。
横浜 江戸時代は何藩?Q&Aと豆知識
よくある質問
Q. 結局、横浜市全体を支配していた一つの大きな藩はなかったの?
A. はい、その通りです。江戸時代の横浜市域は、現在の市域全体をカバーするような単一の藩によって統治されていたわけではありません。金沢区周辺を中心とする比較的小さな「六浦藩」と、それ以外の大部分を占める幕府直轄の「天領」や「旗本領」などが複雑に入り組んでいました。
Q. 江戸時代の横浜の中心はどこだったの?
A. 交通の面では、東海道の宿場町であった神奈川宿(現在の神奈川区)や保土ヶ谷宿(保土ヶ谷区)が中心でした。政治・経済の面では、これらの宿場町を含む重要拠点は幕府直轄地(天領)として代官が治めていました。
Q. 六浦藩は横浜港の開港にどう関わったの?
A. 開港地となった横浜村は天領だったため、六浦藩が直接的に開港事業に関わることはありませんでした。しかし、江戸湾の防衛体制の一翼を担う譜代藩として、黒船来航以降の湾岸警備などで重要な役割を果たし、幕末の激動の時代に立ち会いました。
Q. 六浦藩ゆかりの名所は今でも観光できる?
A. はい、できます。金沢区六浦にある陣屋跡の説明板を訪れたり、藩政時代から景勝地として知られる金沢八景エリアを散策したりすることで、六浦藩の歴史に触れることができます。
横浜 江戸時代は何藩?まとめと歴史の魅力
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江戸時代の横浜には、現在の市南部(金沢区・磯子区の一部など)を支配した譜代藩「六浦藩」が確かに存在した。
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しかし市域全体は、幕府直轄地である天領、将軍家臣の旗本領、寺社領などが複雑に入り組んだ複合支配地域であった。
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幕末の横浜開港は、幕府が直接管理する天領であった横浜村が舞台となった。六浦藩は、江戸時代の横浜南部の歴史を語る上で欠かせない存在である。
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六浦藩の陣屋跡や関連史跡、そして「六浦」という地名は現代にも息づき、地域の文化や歴史を今に伝えている。
「横浜は何藩だったのか?」という問いの答えは、「一つの藩ではなく、六浦藩、そして幕府の天領や旗本領などが重なり合って形成された、多様性に満ちた土地だった」ということになります。この複雑な歴史こそが、開港後に様々な文化を受け入れ、国際都市として発展する素地となりました。歴史のレイヤーを知ることで、あなたが普段何気なく歩いている横浜の街並みが、より一層面白く、奥深いものに見えてくるはずです。