小田原城を作った人は誰?北条氏から現代の宮大工まで歴史を解説
神奈川県を代表する観光スポットであり、その堂々とした姿で訪れる人を魅了する小田原城。「あんなに立派なお城、一体誰が作ったんだろう?」と疑問に思ったことはありませんか。
実は、小田原城の「作った人」は一人ではありません。室町時代に最初の砦を築いた武将から、戦国時代に関東支配の拠点として巨大化させた北条一族、そして江戸時代に石垣を積んだ大名たちまで、長い歴史の中でバトンが受け継がれてきました。さらに言えば、一度は廃城となり崩れてしまった城を、昭和・平成の時代に蘇らせた建築家や宮大工たちの存在も忘れてはいけません。
この記事では、いつ誰が建てたのかという歴史の謎から、難攻不落と言われた「総構え」の秘密、そして現代の復元工事に込められた職人たちの熱い想いまで、小田原城を作り上げてきた人々の物語を詳しく解説します。これを知れば、天守閣を見上げた時の感動がきっと変わるはずです。
- 最初の大森氏から北条五代による拡張の歴史がわかる
- 豊臣秀吉も攻めあぐねた総構えと難攻不落の秘密を知る
- 江戸時代の改修や昭和の天守閣復興の経緯を理解できる
- 現代の宮大工による木造復元と伝統技術の継承に触れる

横浜で現実逃避作成イメージ
歴史を築いた小田原城を作った人の変遷
現在の小田原城の姿になるまでには、数百年という長い歳月と、その時々の支配者たちの強烈な意志が必要でした。ここでは室町時代の最初の築城から、戦国時代の拡張、江戸時代の近世城郭化、そして一度は失われてしまった明治・大正期までの流れを、それぞれの時代で「作った人」に焦点を当てて見ていきましょう。
いつ建てられたか?最初の大森氏と八幡山古郭
小田原城の歴史を紐解くとき、最初に登場する「作った人」は、室町時代にこの西相模地方を治めていた大森氏です。一般的には、大森頼春(おおもり よりはる)が15世紀初頭(応永24年・1417年頃)に築城したのが始まりとされています。
「じゃあ、今の天守閣がある場所に大森さんが城を建てたの?」と思うかもしれませんが、実は少し違います。大森氏が築いた当初の小田原城は、現在私たちが観光で訪れる本丸広場ではなく、その背後にあるさらに標高の高い丘、「八幡山(はちまんやま)」に位置していました。現在は「八幡山古郭」と呼ばれているエリアですね。
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なぜ高い場所に作ったのか?
当時の戦いは、高い場所から敵を見下ろすことが何よりも有利とされていました。八幡山は、箱根の山々を背にしつつ、眼下には東海道と相模湾を一望できる絶好のロケーションです。ここに関所のような機能を設けることで、人や物の流れを完全にコントロールしようとしたのでしょう。
大森氏は、この地形的利点を最大限に活かして相模国西部での覇権を確立しました。つまり、最初の小田原城は「領土を守るための要塞」としての性格が非常に強かったのです。
戦国大名の北条早雲と歴代城主による拡張
大森氏の支配は、戦国の世の到来とともに終わりを告げます。明応4年(1495年)、伊豆から進出してきた伊勢宗瑞、のちの北条早雲が小田原城を奪取しました。これがいわゆる「北条早雲の小田原攻め」です。

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歴史ドラマなどでは「鹿狩りと称して兵を入れ、油断していた大森氏を急襲した(火牛の計)」なんてエピソードが語られますが、実際には周到な準備と交渉があったとも言われています。いずれにせよ、早雲が小田原という土地の重要性を誰よりも深く理解し、手に入れたことは間違いありません。
早雲が入城した後、二代目の氏綱(うじつな)、三代目の氏康(うじやす)へと代替わりする中で、小田原城は劇的な進化を遂げました。「作った人」としての彼らの功績は、単に城を大きくしただけではありません。
- 城下町の整備: 氏綱は、職人や商人を集めて城下町を整備しました。「虎の印判」という独自の印鑑システムを作るなど、小田原を関東の政治・経済の中心地(首都)へと成長させたのです。
- 要塞化と実戦経験: 氏康の時代には、あの上杉謙信や武田信玄といった最強クラスの武将たちから攻撃を受けましたが、堅固な守りでこれを撃退しました。「難攻不落」の伝説は、この実戦での勝利によって作られたんですね。
彼らは大森氏時代の山城部分(八幡山)を活用しつつ、徐々に平地部分(現在の本丸周辺)へと城域を広げ、都市機能を持った巨大な城郭へと変貌させていったのです。
難攻不落の伝説と豊臣秀吉も恐れた総構え
小田原城の最大の特徴とも言える「総構(そうがまえ)」を作り上げたのは、四代氏政(うじまさ)と五代氏直(うじなお)です。時は戦国末期、天下統一を目指す豊臣秀吉の軍勢が迫りくる中、彼らは生き残りをかけて空前絶後の防衛ラインを構築しました。
総構とは、城の本丸や二の丸といった中心部だけでなく、家臣の屋敷や町人の住む城下町全体を、長大な土塁と空堀でぐるりと囲い込む構造のことです。その全長は約9kmにも及び、当時の日本最大級の規模を誇りました。
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この巨大な防御網を前にして、20万を超える大軍を率いた秀吉でさえも、力攻め(強行突入)を諦めざるを得ませんでした。結果的に小田原城は、約100日間にわたる長期の包囲戦(小田原合戦)の末に開城しますが、「武力で攻め落とされたわけではない」という事実は、北条氏の築城技術の高さを証明しています。
現在でも小田原市内には、この時に作られた総構の跡が点在しており、その規模の大きさを体感することができます。
江戸時代に石垣の城へ改修した稲葉正勝
北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入ると、小田原城の役割は「関東の西の守り」へと変化します。当初は大久保氏が城主となりましたが、その後に入封した稲葉正勝(いなば まさかつ)の手によって、城は大きな転換点を迎えました。
寛永年間(1630年代)、三代将軍・徳川家光の乳兄弟であり側近でもあった稲葉正勝は、大規模な改修工事を行います。それまでの小田原城は「土の城」でしたが、ここで初めて本格的な石垣が導入されたのです。

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| 改修内容 | 詳細 |
|---|---|
| 石垣の構築 | それまでの土塁主体の構造から、近世的な「石垣の城」へと全面的に作り変えられました。石材には近くの早川石丁場の安山岩が多く使われています。 |
| 天守の整備 | 層塔型の立派な天守閣が整備され、徳川の威光を示すシンボルとなりました。 |
| 御殿の拡張 | 二の丸御殿などが整備され、将軍が上洛する際の宿泊所としての機能も強化されました。 |
現在私たちが目にしている小田原城の基本的な配置や、お堀と石垣の美しいラインは、この稲葉氏の時代に作られたものがベースになっています。つまり、現代の小田原城のビジュアル面での「直接的な原型を作った人」は稲葉正勝と言えるかもしれません。
明治の廃城と関東大震災による崩壊の歴史
江戸時代を通じて維持されてきた小田原城ですが、明治維新とともにその役目を終えます。明治4年(1871年)の廃城令により、天守閣をはじめとする多くの建物が入札で売却され、解体されてしまいました。城としての姿はここで一度失われてしまったのです。

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さらに追い打ちをかけたのが、大正12年(1923年)の関東大震災です。震源に近かった小田原は激しい揺れに見舞われ、残されていた石垣の大部分が崩落してしまいました。小田原城は物理的にも壊滅的な被害を受け、一時は御用邸や学校の敷地として利用されるなど、城跡としての面影は薄れてしまっていた時期がありました。
現代に小田原城を作った人の技術と想い
一度は失われ、崩れてしまった小田原城ですが、昭和から平成、そして令和にかけて、多くの人々の情熱によって蘇りました。ここからは、現代において小田原城の再建に携わった「作った人」たち、設計者や職人たちの技術と想いに迫ります。
現在の天守閣が鉄筋コンクリート造である理由
現在の小田原城天守閣は、昭和35年(1960年)に市制20周年記念事業として復興されました。遠くから見ると江戸時代のままのように見えますが、実は中身は鉄筋コンクリート造(RC造)です。

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「せっかくなら木造で建ててほしかった」と思う歴史ファンの方もいるかもしれません。しかし、これには深い事情がありました。当時は建築基準法の制約で、これほど大規模な木造建築を建てることが非常に難しかったのです。また、多くの観光客が安全に登れる展望台としての機能や、地震・火災に強い防災面を考慮した結果、現代の技術である鉄筋コンクリートが選ばれました。
これは手抜きなどではなく、当時の人々が「どんな形であれ、小田原のシンボルを取り戻したい」と願った、精一杯の「作った人」としての選択だったのです。「瓦一枚運動」のように市民からの寄付も多く集まり、まさに市民の手で作られた城と言えます。
昭和の復興を設計した藤岡通夫博士の功績
昭和の天守閣復興において、設計と監修を担当したのが、城郭建築の権威である藤岡通夫(ふじおか みちお)博士です。

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藤岡博士は、残されていた明治初めの古写真や、江戸時代の「宝永度天守」の雛形(模型)、図面などを徹底的に分析しました。歴史的な史料に基づきつつ、現代の建築技術でそれを再現するという難題に挑んだのです。
幻の五重天守説との決別
実は史料の中には「小田原城の天守は五重だったかもしれない」という説もありました。観光的には五重の方が豪華で見栄えが良いですよね。しかし、藤岡博士は学問的な良心に基づき、確実に存在したことが証明できる「三重四階」の天守として設計しました。
平成の大改修と木造復元を支える宮大工
昭和に再建された天守閣も半世紀が過ぎ、老朽化が進みました。そこで平成27年(2015年)から平成28年にかけて行われたのが「平成の大改修」です。この改修では、耐震補強工事とともに、内部の展示が全面的にリニューアルされ、より深く歴史を学べる施設へと生まれ変わりました。
また、この時期には天守閣だけでなく、城内の「門」の復元も進められました。ここで活躍したのが、現代の宮大工たちです。特に、棟梁の芹澤毅(せりざわ たけし)氏をはじめとする職人チームは、地元の木材(神奈川県産材)を積極的に使用し、伝統的な工法にこだわって作業を進めました。

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銅門や馬出門の復元に見る伝統技術の継承
平成9年(1997年)に復元された銅門(あかがねもん)や、平成21年(2009年)の馬出門(うまだしもん)は、天守閣とは異なり、本格的な木造建築として復元されています。

これらの門の復元では、釘を極力使わずに木をパズルのように組み合わせる「木組み」の技術や、竹を編んで土を塗る伝統的な「土壁」の工法が忠実に再現されました。これは単に建物を直すだけでなく、失われつつある日本の伝統建築技術を次世代の職人へと継承するプロジェクトでもあったのです。
| 門の名前 | 復元年 | 特徴と見どころ |
|---|---|---|
| 銅門(あかがねもん) | 1997年 | 扉の飾り金具に銅が使われていることから名付けられた、二の丸の正門。非常に重厚で大きく、桝形(ますがた)と呼ばれる四角い広場もしっかり再現されています。 |
| 馬出門(うまだしもん) | 2009年 | 二の丸正面の入り口を守る門。控柱(ひかえばしら)など、複雑な木組み構造を間近で見ることができます。ここを通って銅門へ向かうルートは圧巻です。 |
小田原城の特徴的な障子堀と防御の仕組み
「作った人」の知恵が詰まっているのは、建物だけではありません。地面に掘られた堀にも、北条氏独自の技術が光っています。それが「障子堀(しょうじぼり)」です。
障子堀とは、堀の底に土の壁(畝)を障子の桟(さん)のように格子状に残した独特の構造のこと。発掘調査に基づいて復元されたこの堀を見ると、当時の人々がいかにして敵の侵入を阻もうとしたかが分かります。

時代を超えて小田原城を作った人の物語
こうして歴史を振り返ってみると、「小田原城を作った人は誰か?」という問いへの答えは一つではないことが分かります。
地形を見極めて最初に砦を築いた大森頼春、難攻不落の要塞へと育て上げた北条五代、石垣と天守で威容を整えた稲葉正勝、そして廃城と震災を乗り越えて城を蘇らせた昭和・平成の市民や職人たち。
小田原城は、それぞれの時代の「作った人」たちの情熱と技術が、地層のように積み重なってできている城です。次に小田原城を訪れる際は、天守閣の高さや石垣の美しさだけでなく、その背後にある多くの人々の物語にも思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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