鎌倉大仏は誰が作った?作者の謎と歴史を徹底解説
神奈川県の象徴とも言える、あの堂々とした鎌倉大仏。現地でその姿を見上げるたびに、ふと「鎌倉大仏は誰が作ったのだろう」という素朴な疑問が湧いてきませんか。奈良の大仏のように教科書で習った記憶があいまいだったり、いつ建立されたのか正確な年号を知らなかったりする方も多いはずです。実はこの大仏様、誰が作ったのかという作者の名前が公式の歴史書にはっきりと残っていないミステリーな存在でもあります。稲多野局という女性や僧侶の浄光といった人物、さらには津波による大仏殿の流失など、その背景には数々のドラマが隠されているのです。
- 源頼朝の遺志を継いだ意外な女性発起人の正体
- 公式記録に残らない作者と技術者集団の謎
- イケメンと言われる宋風様式の秘密と鋳造技術
- かつて存在した大仏殿が消えた災害と歴史の真実
鎌倉大仏は誰が作ったのか?歴史と発願者の謎
鎌倉大仏(長谷の大仏)を前にしたとき、まず気になるのが「一体、誰が何のためにこれほどの巨大プロジェクトを動かしたのか」という点ですよね。莫大な資金と高い技術力が必要なこの事業、実はたった一人の権力者の命令だけで動いたわけではありません。そこには、頼朝の夢を継ごうとした女性や、泥臭く資金を集めた僧侶たちのドラマがありました。
謎の女性である稲多野局と源頼朝の遺志

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鎌倉大仏の造立計画のルーツをたどると、鎌倉幕府を開いた源頼朝に行き着きます。頼朝は1195年、戦火から再建されたばかりの奈良・東大寺の大仏供養に妻の北条政子と共に参列しました。そこで目にした巨大な仏像の威容に深く感動し、「自分の本拠地である鎌倉にも、東国の守りとなるような大仏を」と願ったと伝えられています。しかし、頼朝はその夢を果たせぬまま、1199年にこの世を去ってしまいました。
では、主君を失ったこのプロジェクトを、誰が再始動させたのでしょうか。ここで歴史の表舞台に登場するのが、稲多野局(いなだのつぼね)という女性です。彼女は頼朝の侍女だったとされていますが、ただ身の回りのお世話をしていただけの人物ではなかったようです。
「糊売り」の伝説が示す資金力
稲多野局には、非常に興味深い伝承が残されています。それは彼女が「糊(のり)売り」を通じて資金を集めた、あるいは糊を扱う商人たちの元締め的な存在だったという説です。
稲多野局の実像とは? 「関東で糊(のり)を業とするのは稲多野局から始まった」という記述も一部にはあり、彼女が単なる宮廷の女性ではなく、独自の経済基盤や資金調達能力を持った実業家のような側面を持っていた可能性が指摘されています。頼朝への忠誠心だけでなく、実務的な能力も兼ね備えていたからこそ、大仏造立という巨大事業の発起人になり得たのでしょう。
頼朝という「精神的な発案者」の遺志を、稲多野局という「情熱的な発起人」が受け継ぐ。この二人のリレーがあったからこそ、鎌倉大仏の歴史は動き出したのです。
鎌倉大仏が作られた目的と民衆の浄財
奈良の大仏が聖武天皇の勅命による「国家プロジェクト(鎮護国家)」として、国庫からの税金を投入して作られたのに対し、鎌倉大仏はもう少し「民衆寄り」の性格を持っていたようです。
もちろん、時の執権である北条氏や幕府のバックアップはありましたが、造立の主な原資となったのは「勧進(かんじん)」による寄付でした。勧進とは、僧侶が人々に仏教への帰依を説き、寄付を募る活動のことです。
当時は戦乱や災害が続き、明日の命も知れぬ世の中でした。敵味方の区別なく戦死者を弔いたい、平穏な世の中になってほしい。そんな民衆一人ひとりの切実な祈りと「浄財」が積み重なって、あの大仏様は作られたのです。いわば、中世のクラウドファンディングによって実現したモニュメントと言えるかもしれません。
建立はいつ?1252年の鋳造開始と期間
「じゃあ、具体的にいつできたの?」という疑問について見ていきましょう。鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鏡』には、大仏造立に関する重要な日付が2つ記録されています。
- 1238年(暦仁元年): 木製の大仏の造立がスタート(開眼供養は1243年)
- 1252年(建長4年): 現在の銅造大仏の鋳造がスタート
ここでのポイントは、「最初は木造だった」という事実です。1238年に造り始められた木造の大仏は、残念ながら台風などの災害によって倒壊してしまったと言われています。「木ではダメだ、もっと強い素材でなくては」ということで、1252年から改めて、より強固な青銅製(銅造)での再建が始まりました。
1252年に鋳造が開始された後、いつ完成したのかについては正確な記録が残っていません。しかし、高さ11メートルを超える金属の塊を鋳造し、仕上げるには、数年から十数年の歳月がかかったはずです。当時の人々の執念のようなエネルギーを感じずにはいられません。
プロデューサー僧の浄光と勧進の活動

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資金集めと現場指揮、現代で言うところの「プロジェクトマネージャー」として奔走したのが、僧侶の浄光(じょうこう)です。
彼は「勧進聖(かんじんひじり)」と呼ばれる、寺社建立のための資金調達を専門とする遊行僧でした。遠江国(現在の静岡県西部)の出身とも言われていますが、彼は特定の寺院にこもるのではなく、諸国を巡り歩きました。
浄光は、貴族や武士といった富裕層だけでなく、一般の庶民からも「一紙半銭(わずかなお布施)」を集めました。彼の優れたマネジメント能力と、人々を惹きつけるカリスマ性がなければ、これほどの大事業は途中で頓挫していたことでしょう。稲多野局が火をつけ、浄光が薪を集めてその炎を大きくした。鎌倉大仏は、そんなチームプレーの結晶なのです。
作者の有力候補である丹治久友と鋳物師

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さて、いよいよ核心部分である「実際に誰が形を作ったのか(彫刻家・技術者)」についてです。残念ながら『吾妻鏡』には作者名が明記されていません。これには「集団制作だったため個人の名を残さなかった」「仏教的な謙譲の精神」など諸説ありますが、後世の研究から有力な候補者が浮上しています。
その筆頭が、丹治久友(たんじひさとも)という人物です。
彼は「河内鋳物師(かわちいもじ)」と呼ばれる、当時の日本におけるハイテク技術者集団の一員だったと推測されています。河内(現在の大阪府東部)は鋳造技術の先進地であり、東大寺の復興にも彼らの技術が使われました。その技術のエキスパートたちが鎌倉に招かれ、大仏鋳造という難事業に挑んだ可能性が高いのです。
特定の「天才芸術家」一人の作品というよりは、名もなき超一流の技術者たちのチームワークによって作られた。そう考えると、作者不明という事実もまた、職人気質の彼ららしくてかっこいいと思えてきませんか。
美術や技術から探る鎌倉大仏は誰が作ったのか
作者の名前が記録になくても、大仏様そのものをじっくりと観察・分析することで、作った人たちの「こだわり」や「出身」、そして彼らが持っていた美意識が見えてきます。ここからは、美術史や科学的な視点から「作者」のプロファイリングを行ってみましょう。
鎌倉大仏がイケメンな理由は宋風様式
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鎌倉大仏のお顔をよく見てみてください。奈良の大仏に比べて、どこか人間的で、理知的な顔立ちをしていませんか?巷で「鎌倉大仏はイケメン」と評されることが多いですが、これには美術史的な理由があります。
それは、制作者が当時中国(宋)から入ってきた最先端のトレンドである「宋風様式(そうふうようしき)」を取り入れているからです。具体的には以下のような特徴があります。
- 面長の輪郭: 四角張りつつも、頬がふっくらとした若々しい顔立ち。
- 猫背の姿勢: 横から見ると背中を丸め、頭を前に突き出しています。これは参拝者が下から見上げた時に、ちょうど仏様と目が合うように計算された視覚効果です。
- 平面的な衣文: 服のシワの表現が、深く彫り込む日本の伝統的なスタイルとは異なり、平面的で流れるように処理されています。
これらの特徴は、運慶や快慶に代表される日本の「慶派」の力強いリアリズムとは明らかに異なります。おそらく、大陸の文化に精通した仏師や、渡来人の技術者が制作の主導権を握っていたのでしょう。
奈良の大仏との違いや大きさの比較
「奈良と鎌倉、どっちが大きいの?」「何が違うの?」と気になる方も多いと思います。ここで両者のスペックを比較してみましょう。
| 比較項目 | 鎌倉大仏(高徳院) | 奈良大仏(東大寺) |
|---|---|---|
| 高さ(像高) | 約11.3メートル | 約15.0メートル |
| 重さ | 約121トン | 約250トン |
| 尊名 | 阿弥陀如来(極楽浄土) | 盧舎那仏(宇宙の真理) |
| 材質 | 青銅(金箔の痕跡あり) | 銅(鍍金) |
| 状態 | ほぼ造立当初の姿 | 度重なる修理で変化 |
大きさだけで言えば奈良の大仏に軍配が上がります。しかし、鎌倉大仏の真の価値は「作られた当時の姿をほぼ完全に残している」点にあります。
奈良の大仏は戦火で頭部が焼け落ちるなどして何度も修理されており、現在の頭部は江戸時代に作られたものです。一方、鎌倉大仏は750年以上も前のオリジナルの姿を保っています。これは奇跡的であり、鎌倉時代の職人の技術力の高さを証明しています。
(出典:鎌倉大仏殿高徳院『大仏様について』)
高度な分割鋳造法と鉛を含む材質の工夫
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120トンもの金属を、クレーンも電力もない時代にどうやって形にしたのでしょうか。当時のエンジニアたちは「分割鋳造法(いかけ)」という高度な技法を使いました。
これは像を下から順番に8段に分けて鋳造し、積み上げていく工法です。大仏様の胎内(中)に入ることができる「胎内拝観」に行くと、その継ぎ目の跡や、強度を高めるための「鋳繰り(いぐり)」という接合技術をはっきりと見ることができます。
材質に隠された秘密 最新の蛍光X線分析などの科学調査で、鎌倉大仏の青銅には「鉛」が多く含まれていることがわかっています。鉛を混ぜると金属の融点が下がり、溶けた金属がサラサラになって流れやすくなります。巨大な型枠の隅々まで金属を行き渡らせ、表面を綺麗に仕上げるために、職人たちが配合比率を調整したのです。
なぜ露座?大仏殿の倒壊と津波の記録

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現在、鎌倉大仏は屋根のない「露座(ろざ)」の姿で鎮座していますが、これは当初の設計ではありません。完成当時は、奈良の大仏と同じように、立派な大仏殿の中に安置されていました。大仏様の周りには、かつて建物を支えていた巨大な礎石(そせき)が今も残っています。
しかし、自然の猛威が建物の存続を許しませんでした。歴史記録によれば、以下のような災害に見舞われています。
- 1334年(建武元年):大風により倒壊
- 1369年(応安2年):再び大風により倒壊
- 1498年(明応7年): 明応地震と津波により倒壊
津波説の真実 長らく「1498年の津波で建物ごと押し流された」というのが通説でしたが、近年の地質学的な調査では、津波だけでなく地震の揺れそのものや、近隣河川の氾濫などが複合的に作用したのではないかという見方も強まっています。いずれにせよ、この災害を最後に大仏殿が再建されることはなく、大仏様は500年以上もの間、雨風に耐えながら私たちを見守り続けているのです。
結論:結局、鎌倉大仏は誰が作ったのか

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ここまで歴史、人物、技術の面から深掘りしてきましたが、私がたどり着いた答えはこうです。「鎌倉大仏を作ったのは、特定の一人ではない」。
源頼朝という夢見た人、稲多野局という資金を集めた人、浄光という指揮した人、そして丹治久友ら名もなき技術者たちの技。さらに忘れてはならないのが、平和を願ってわずかなお金を寄付した数え切れないほどの庶民たちです。そのすべての想いと力が合わさって、この奇跡の巨像は生まれました。
「誰が作った」という特定の名前が残っていないことこそ、この大仏様が権力者の所有物ではなく、「みんなで作った民衆の大仏」であることの何よりの証明なのかもしれません。次に鎌倉を訪れる際は、そんな多くの人々のリレーに思いを馳せながら、あのお顔を見上げてみてください。